内田樹さんの「出版文化の要件」

内田樹さんの『街場のメディア論』の中の「第6章 読者はどこにいるのか」を読んで、「出版文化の要件」についていい指摘でしたのでメモしました。

 出版文化がまず照準すべき相手は「消費者」でなく、「読書人」です。書物との深く、複雑な欲望の関係のうちに絡め取られている人々です。出版人たちが既得権を守りたいとほんとうに望んでいるのなら、この読書人層をどうやって継続的に形成すべきか、それを最優先的に配慮すべきだろうと思います。
 それは「選書と配架にアイデンティティをかける人」の絶対数を増やすことです。この「読書人」たちの絶対数を広げれば広げるほど、リテラシーの高い読み手、書物につよく固着する読み手、書物に高額を投じることを惜しまない人々が登場してくる可能性が高まる。単純な理屈です。図書館の意義もわかる、専業作家に経済的保証が必要であることもわかる、著作権を保護することのたいせつさもわかる、著作権がときに書物の価値を損なうリスクもわかる、すべてをきちんとわかっていて、出版文化を支えねばならないと本気で思う大人の読書人たちが数百万、数千万単位で存在することが、その国の出版文化の要件です。
 そのような集団を確保するために何をすべきなのか、僕たちはそのことから考え始めるべきでしょう。 p164-165

また、一昨日のブログ内田樹さんの『街場のメディア論』から次の箇所を引用しました。

自分の本棚は僕たちにとってある種の「理想我」だからです。「こういう本を選択的に読んでいる人間」であると他人に思われたいという欲望が僕たちの選書を深く決定しているからです。ジャック・ラカンの言葉を借りて言えば、ぼくたちの家の本棚は「前未来形で書かれている」と言ってよいでしょう。

この「ジャック・ラカンの言葉」が不明解でした。この文に続く箇所を掲載しましたので、ご覧下さい。ぼくたちの家の本棚は「前未来形で書かれている」という意味を理解してもらえたでしょうか。

 「前未来形」というのは未来のある時点で完了した行為や状態について使う時制です。「今日の午後三時に私はこの仕事を終えているであろう」というようなのがそれです。書棚に配架された本が「前未来形で書かれいる」というのは、その書棚に並んだ本の背表紙を見た人が「ああ、こんな人はこういう本を読む人なんだな。こういう本を読むような趣味と見識を備えた人なんだな」と思われたいという欲望が書物の選択と配架のしかたに強いバイアスをかけているということです。人から「センスのいい人」だと思われたい、「知的な人」だと思われたい、あるいは「底知れぬ人」だと思われたい、そういう僕たちの欲望が書棚にはあらわに投影されている。p150


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