山下武さんの「掘り出し物」

山下武さんの『書物熱愛』(実業之日本社)を読んでいて、同書[3]伝記を楽しむの<5>「暗い青春の記憶とともに」の冒頭、「掘り出し物」について書いてありました。

よく“掘り出し物”というが、この語の本来の意味はなんだろう? ふつう、もっぱら値打物を捨て値で買ったという意味に使われるようだが、これとは別に、金銭的打算を抜きにした“掘り出し物”もあっていいのではないか。つまり、あくまで本の内容本位に考えるべきではないか、ということである。むろん“掘り出し物”というからには廉いということも条件の一つにはちがいないけれど、ひとが見向きもしない駄本の山の中から、ピカッと光る良書を拾い上げたときほどうれしいことはない。p253-254

本好きは駄本の中の良書 = “掘り出し物” を見つけるために、古本屋めぐりをします。万一、見つけられなくても、また次回と、性懲りもなく古本屋めぐりを繰り返します。

なぜそこまでやるのか。それは一度でも“掘り出し物” を見つければ、絶対にやみつきになります。それだけその時の喜びは何にも変えがたいのです。それは言葉を尽くすよりも実感してもらったほうがいいでしょう。

そこで山下さんの“掘り出し物”はというと、新居格訳『パピーニ自叙伝』(大13・アテネ書院)だといいます。

この本は「いずれにせよひどい翻訳で、意味のとれない箇所もすくなくない」本なのですが、

本好きだけが理解し合えるあの狂熱 ― 少年の日のあくなき知識欲と、孤独な読書の愉しみ、時代と環境こそちがえ、ともに読書だけが唯一の救いだった暗い青春時代の記憶が、著者への共感となって噴出したのだった。

そういう本でもとは思いますが、これが山下さんにとっては“掘り出し物”だったのです。人にとっては駄本でも、その人にとっては良本なのです。“掘り出し物”は人のためにあるのではなく、自分のためにあるのです。

こう書いていると、今日帰りに古本屋さんに立ちよりたくなりました。そういえば、水曜日は古本の日 ・・・ あまりに牽強付会な話!?
※この記事を7/27(水)12時にアップしました。