ぼくは久しぶりに植草甚一さんの本を読んだ
なぜ植草甚一?と言わないでもらいたい。まだまだ植草さんの本が読まれています。今日、受注本を探していて、植草さんの『ぼくの読書法』(晶文社)を発見。これがきっかけとなり、久しぶりにJJの本を読みました。
この本は
1. 洋書捜しと古本屋
2. おかしな本、おかしな人々
3. 本から世界を見ると
4. 文学に何が起ったか
の項目で構成され、最後に「書物愛のダンディズム」と題して、佐伯彰一さんが解説を書いています。
この本は1. の洋書捜しと古本屋にも書いてありますが、「わが道はすべて古本屋に通ず」の通り、古本に始まり、古本に終わります。ここまで好きな本や雑誌、そして音楽や映画などを愉しんだ人はいないのではないか。
今はもう道楽という言葉をあまり使わなくなりました。この言葉は植草さんのためにあります。言い方を変えれば、物好き、好事家、酔狂人、数寄者ですが、どう呼ばれようと、やりたいことをやって生きました。
ふらふらと、あちこち散歩をし、古本屋に入り、15冊以上の本を買い、それを読みながらコラージュしていました。おじさん以前から以後まで、それをずっと続けました。大いなる好奇心と行動力!
これから高齢化社会を生きていく上でのいいモデルになります。そういう生き方をひと言でいうと、「したくないことはしない」生き方。これが植草さんのダンディズムの原点です。
佐伯さんはそういう植草さんをこういいます。
<江戸時代のエロス、「色道」と同じように、植草さんの書物愛にも、はっきりとエチケットがあり、スタイルがある。何気ないようで、型が決まっていて、だから、何をなさっても、サマになるのである。現代の若者たちに、植草さんの本が大へん評判がよく、人気が高いというのを、ぼくははなはだ心強いことに思っている。型がすたれ、様式がほろびて、世は品下がってゆくばかりと嘆きたくなることも多いのだが、植草甚一生きてある限り、この全集が売れつづける限り、現代日本も捨てたものではない。古本屋歩きと書物愛において、スタイルとダンディズム、粋と心意気はりっぱに生きのびている。>
当店にもまだ植草さんの本の注文や問合せがあります。植草さんが亡くなっても、なお植草本が売れ続けていることを考えると、佐伯さんの言うように、まだまだ日本も捨てたものではない?のかもしれません。
また、今年は近代映画社から『植草甚一WORKS』が刊行されました。これは「スクリーン」に書いた映画のエッセイを全6巻に分類しまとめたものです。これを見ても、まだまだ植草甚一健在です。