不純な読者の読書

3/7「yomunelの日記」の「日々のあわ」の中で、豊崎由美『勝てる読書 (14歳の世渡り術)』(河出書房新社)と千野帽子『世界小娘文學全集』(河出書房新社)を読んで、坪内祐三さんの『考える人』(新潮文庫)の言葉を思い出し、それを引用しています。

<一般論を言えば、私自身は不純な読者です。誰かの文章をきっかけに(ガイドとして)、別の誰かの文章に出会い、その文章にはまって行くというのが、私の場合、しばしばです。しばしばというより、ほとんどです。/ けれど、他ならぬ小林秀雄は、不純な読者(書)を強く嫌っていました。常に純粋読者(書)だけを求めていました。要するに、自分の頭で考え、自分の心で感じよ、という人でした。>

yomunelさんも<100%不純な読者>だといいます。そういわれると、私など120%、いやそれ以上不純かもしれません。読書は何か体系だって読むというよりは思いのまま読むことが圧倒的に多いのです。

いま手元にある読みかけの本は次の通りです。

これらは何かつながりがあるかというとありません。そのときどきに思いのまま手に取るのですが、かといってまったく理由もなく読んでいるのでもありません。そのときには何らかの読む理由があったのです。

日高さんの本は昨日春近しを感じ、古本屋さんの棚にこの本がありました。「春の数えかた」というタイトルがそのときの陽気に合っていたので購入しました。

巽さんの本は新聞の書評に取り上げられて、読もうと思っていた本ですし、小田さんの本は「読書ブログ」で何人かの人が取り上げていたのでい、いま机の上にあります。

例えば、巽さんの本、これは書評集ですから、その中の紹介されている本を読んでみたくなります。その時は本を購入するか図書館で借りるかになるわけです。それはそれでいいと思っています。

<不純な読者>はタテの体系よりもヨコのつながりを、速読よりも遅読を、直線よりも曲線を、筋道よりも思いつきを優先します。新幹線で行く旅ではなく、青春18きっぷの旅を選択します。

それが<不純な読者>の読書です。

勝てる読書 (14歳の世渡り術) (14歳の世渡り術)   正直書評。   考える人 (新潮文庫)