辺見庸さんの「音もなく兆すものたち」

朝から空が晴れ上がり、肌寒さは残るものの、いい一日になりそうな予感。朝早く起き、新聞を読み、ブログを読み、サイト更新の構想を練っています。

昨日から過去の新聞を読み続けていますが、新聞の見出しだけで読んで済ませるにはもったいない気がしています。

新聞情報のなかにもいい情報が多々あります。昨日紹介した「椎名誠10年説」をそのひとつですし、これから書く辺見庸さんの「音もなく兆すものたち」(朝日新聞2月5日文化欄より)もそのひとつです。

久しぶりに辺見さんの文章を読みました。一点凝視の辺見さんの写真も掲載されていました。健康状態はどうなのでしょうか。この点が気になります。

辺見さんは散歩をしながら、じっくりと考え、感じたことをこの文章にしています。その内容はいまの時代に不釣合いな深さと重さを感じます。それが辺見さんの文章なのだと思います。

しかし、この文章のどこを引用していいのか。文章がしっかりと結ばれていて、その結び目が見当たらない。結び目を解いて、それを引用したいのですが、それができない。

これは全文を読んでもらった方がいいのかもしれません。勝手あるいは不適かもしれませんが、次の箇所を引用しました。

<・・・・・何が起きたというのだろう。影の差しぐあいもズレているというか暈けているというか、どうもおかしい。胸がさわぐ。事情を知らないのは私だけではないのか。足もとがくずれる心地がして、歩きながら青ざめる。ひょっとしたら世界はいま静かに滅びつつあるのではないか。いや、自分がまっとうな見当識をうしないはじめているのか。原因はどちらかしか考えられず、そのどちらにせよ大ごとである。・・・・・>

果たして、世界がいま静かに滅びつつあるのか、自分がいま深く崩れつつあるのか。

たんば色の覚書 私たちの日常