荒川洋治さんの「文学談義」

9/30日経新聞の文化欄に、荒川洋治さんが「文学談義」という一文を書いています。一読し、いろいろ考えさせられました。

まずこの一文から。荒川さんは冒頭次のように書いています。

「すぐれた文学作品は想像と思考の力を授けてくれる。人の心をつくる。人間の現実に、働きかける。「文学は実学である」とぼくは思う。いまは文学を大事にしなくなった。本らしい本を読む人も少ない。人が集まると、何人か文学談義をしたものだが、いまは見かけない。」

そして「自分ひとりの文学談義」を展開しています。

そう、文学談義って、しなくなりました。学生の時は読んだ本のあれこれを、半知半解のことばで、それでも何かを伝えたくて話をしていました。また酒を飲みながら、喧嘩半分に雑言をはきあったりもしました。

しかし「いまの文学部の学生でも、文学の話はしない。うっとうしいらしく、たがいの内部にはふれない。さらっとした話題を好む」といいます。ホットではなく、クールになった?

それだけ一人(孤独)との付き合いがうまくなったのか。別に文学という「実学」を使わなくても、別の「実学」で対処しているのか。あるいは全く無関心になったのか。この点がよくわかりません。

しかし、文学について、独白であっても、語り続けることが必要です。そうする中で、聞き手が生まれ、増えてきます。その語り部のいなくなり、聞き手がいなくなった文化は衰退することは明らかです。

またホットでなく、クールな文学談義もありえるのでは、と思いますが、それがどういうものか。

彼らの立場からすると、インナーを語ることなく、やっていかざるを得ない状況なのでしょう。その状況に対応したかたちがアウターで、フラットなスタイルか。

文学についてのモノローグとそのスタイルをどう結びつけるかが、文学談義復活のキーポイントになると思うのです。

文芸時評という感想