加藤秀俊『続・隠居学』

加藤秀俊さんの『隠居学』(講談社)はこのブログですでに紹介した通り。加藤さん自身は現在理想的なリタイア生活を送っています。それが別名「隠居学」。これは学というには遊であり、遊というには学であり、そんなへんてこりんな生活術です。

わたしはまだその年齢に達していないので、その生活術がへんてこりんに感じてしまうのですが、この『隠居学』『続・隠居学』を読めば読むほど、別にへんてこりんでも何でもないような気がしてきます。

そしてついには老後は愉しい! こんな生活が理想の生活ということになってしまうのです。高齢化社会の今後について語られる中で、老後恐るるに足らずという確信さえ持ってしまいます。

例えば、加藤さんは「空白の手帖」で時間を取り上げ、時間にはスケジュールに管理され進行してゆく「モノクロニック」な時間と一度にたくさんのことが進行していく「ポリクロニック」な時間*1について説明しています。ちょっと長いのですが、引用します。

 だが、退職して組織生活から自由になると、もはや一五分刻みのモノクロニック時間に拘束されることはない。さきほどから申しあげてきたように、いまや天下晴れて「ポリクロニック」でよろしいのである。ほんとにいきあたりばったり。その日のことはその日にきめる。昼寝をしたけりゃ昼寝をする。本を読みたければ読書三昧。それでいっこうにさしつかえない。まことにありがたいことである。定年退職なさった後も、いろんな予定をたてて手帖にあれこれ書き込まないと気が済まない、という方もおられるようだが、あれは組織人間の惰性なのではなかろうか。予定表に縛られていたらストレスばっかりたまるんじゃあるまいか。一生モノクロニックじゃくたびれてしょうがない。
 もっとも、ポリクロニックには不安がある。ゆきあたりばったり、というと自由なようだが、それはいったいなにをしたらいいかわからないから、ということをも意味するからだ。バス停で「待つ」ことにすこしの苦痛もないが、それはしばらく待てばつぎのバスがかならずくる、という確信があればこそ。もしバスがこなかったらいささか当惑する。p56-57

多くの人はこの当惑が不安なのかもしれないが、ご隠居はここでも「ポリクロニック」で行こうといいます。

「ポリクロニック」な人間の行動はゆきあたりばったり。「犬歩けば棒に当たる」のたぐい。ひとつのことがおわったあと、さてどうなるかは気分しだい。そうやってあっちにこっちをふわふわとただよっていればムダもおおいが、いいこともあるでしょう。p73

バスがこなければ、「あっちにこっちをふわふわとただよって」歩いていけばいいのです。捨てがたい「空白の手帖」も思い切って捨てることも必要かもしれません。こんなご隠居の生活、やはりいいなと思ってしまいます。

*1:これは人類学者エドワード・ホールの『文化としての時間』で解説しています。