荒川洋治『夜のある町で』

荒川洋治さんの『夜のある町で』(みすず書房)を読みました。これは詩集『渡世』で、高見順賞を受けた現代詩人・作家の荒川洋治さんのエッセイ集です。荒川さんは次のようにあとがきで書いています。

この六年間(おそらく1993〜1998)に書いたものから、やわらかみのあるもの、七八編を選んで収めた。

荒川さんはこの本で、社会について、食べ物について、本について「明るく繊細に」語っています。また、詩人の眼で、作家のペンを持って、思いのままに書き綴っています。

夜のある町で



そのなかで、特に「エッセイ革命」という一文があります。その中の抜書きがです。

もっとはっきりいえば、随筆には「型」が存在する。その枠のなかを、文章が通っていく。そういうものだと考えておきたい。だから随筆には消極的な空気が流れるので、一見、退屈。新しい情報や知識とは無縁。刺激もない。だからこそ、いつの時代も変わらない人間の姿が見えてくる。それが随筆の魅力。

(略)

読み終わったとき、ぼくはこう感じる。この短い文章はなんだったのだろうな、と。不思議な味わいがあるのだ。いいえ。味わいとしては実に薄いはずの文章なのに頭に残る。それは文章の内容でなく、ひとつの「型」がこちらの心を通っていくためである。とても気持がいい。ちょっただけ気味がわるいものの、ここちよい。文章を読むことは何だか知らないままに、「何か」に打たれること、その恵みをうけることなのであろう。感動とは「型」を通ること。保守的なものなのである。
随筆とエッセイはその点、ちがう。情報量の多い、また、知識をもりだくさんに積みこんだ現代のエッセイは、「なかみ」で競うから、「型」がない。それで、「なかみ」を読んだら、ポイと捨てられることになる。すべてではない。が、ほとんどがそうである。それでは文章として悲しい。

(略)

いまのエッセイは、相当気がきいたものでも、高級なものでも、のりのいいものでも、たいてい現実のなかにおさまる。自分というものの範囲を出ない。そこに弱さがある。現実から一歩の踏み出す勇気。それが現代のエッセイには欠けていた。変なことをいうようだか、文章のプロであるはずなのに、いまの小説家は一般にエッセイが、思ったほど(?)上手ではないように思う。話題も運びも月並み。読者に、社会につきすぎているので、そうなったのだろう。だからその人の小説は読まれなくなる。文学の革命は、エッセイの革命から始まるとぼくは思う。p212-214

今回これほどまでの長文を引用しましたのは初めてです。この荒川さんの随筆とエッセイの定義は明快です。明快であればこそ、この一文をぜひ読んでほしいと思いました。

いま書いているブログも一種の「日記風エッセイ」です。そうであれば、これは随筆というよりエッセイなので、読み捨てられるのが宿命なのかもしれません。が、必要なのは「現実から一歩の踏み出す勇気。」

大袈裟にいっているのではなく、ブログの文章が随筆でもエッセイでもないような気もします。いままでにない「ブログ文体」をうみだしているのではないか。そんなふうにも思うのですが。

ともあれ、随筆の「型」を、またエッセイの「いつの時代も変わらない人間の姿」を思いつつ、またブログを書き続けるのです。