「待つ」ということ

「ハフポスト」の記事<現代社会の「待つ力」 - 次世代に伝えたい「お年寄り」の"ちえ"(土堤内 昭雄) >に、「待つ」ことの大切さについて書いてありました。そういえば、何かを待つことが少なくなった気がします。

たとえば、何かするときに待たなくても、スマホがあればリアルタイムでコミュニケできます。即情報をつかみ、即判断し、即行動することができます。であれば、待つということが自ずと少なくなります。

筆者は鷲田清一著『「待つ」ということ』(角川選書、2006年8月) に触れて、次のように書いています。

<現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった>と記されている。「待つ」ことを失った社会とは何か。本来、「待つ」ことには、「希望」や「期待」や「不安」が内包されていたはずだ。現代を生きる我々は、性急に結論や成果を求めるあまり、「待つ」ことを忘れ、その先にある「希望」や「期待」を見失っていないだろうか。

確かにそういう状況であると思います。「待つ」ことを忘れるということは問い?に対して答え!が即わかってしまうので、考えることが忘れられてしまいます。思考の欠如! これが大きな問題です。

この思考がないと、<「待つ」とは、意のままにならないこと、じぶんを超えたもの、じぶんの力ではどうにもならないものを受容れること>ということもできなくなります。

だから、即答回路を断ち切ること。それをしないと、考えることも、待つこともできなくなってしまいます。そうしないと、すべてが思考なしの条件反射になってしまいます。

「待つ」ことによって、その間に考えることができる。そうして、考えて決め動く中から、自立した思考が生まれます。それが「お年寄り」の"ちえ"というよりも「待つ」ことの効用であり、効果です。

まずは、プラグを抜くこと、そして待つこと。そこから考えることへ立ち戻ることができます。

「待つ」ということ (角川選書)        パラレルな知性 (犀の教室)