いい本は雑本の中に眠る

昨日「鬼子母神通り みちくさ市」が終わり、残りの本を整理していました。単行本はリスト化し、スリップを作っていったのですが、文庫は紙袋に入れ、スリップなしで持っていきました。

単行本は500円を中心に品揃えをし、文庫は100円均一にして並べました。文庫の動きを見ていると、やはり売れるものは売れるという、単純な原則に帰着するように思います。雑本は引き立て役にしかすぎません。

しかし、雑本の中にも、驚くほどの引き立て役がいるものです。書名があまりにぴんとこなかったので、そのまま出品をしたのですが、自宅に持ち帰り、読み始めるとなんとも面白い。

それが森毅さんの『二番が一番』(小学館文庫)です。この文庫の奥付を見ると、「本書のプロフィール」として、次のように書いてありました。

本書は『時の踊り場』(1994年・青土社刊)を加筆・修正したものです。各原稿の初出は236ページに一覧にしてあります。

『時の踊り場』が『二番が一番』でした。書名は前者の方がいいのではと思いつつ、読み進むと、いつの間にか付箋が立ちはじめました。そして読み終わる時点では、10以上の付箋が立っていました。

その中から、いくつかの付箋から引用します。

 もっともぼくの気分は、十八世紀の町人のようなところがある。そのころの江戸の町人は、もっとムダを楽しんでいた。朝顔づくりがはやったのも、そのころだ。落語には「あくび指南」なんてものまである。明治以降、とくに戦後に退屈を排除してきたが、江戸には退屈がたっぷりあった。今、退屈を復権させることが、かなり重要になってきていると思う。労働時間が減少したり、高齢化が進行した場合に、必要なのは退屈を排除することではなくて、退屈を楽しめるようにすることだろう。それに、努力が創造の父ならば、退屈は創造の母なのだ。これも現代の課題としてある。
 そして、江戸時代には、さまざまな”連”のネットワークがひろがっていた。”連”のおもしろいのは、個人の創造性よりは、連句のように、ネットワークを伝わっていくことで、その場全体が創造性を生んでいくところにある。それが、消費社交都市としての江戸の文化創造性だった。
 これは個人や集団がアイデンティティを主張していくモダンに対して、むしろポストモダンと言える。世界的にも、二十一世紀は、モダンからポストモダンに流れそうに思う。p96-97

ではそのポストモダとは。

 複雑な味のふくらみが必要というのは、時代が成熟を要求しているということだろう。日本もやっと成熟が必要な年代に達したということかもしれない。わけることから混ぜることへの転換を、時代は要求している。p71

 二十世紀はまがりなりにも「統一と集中」が有効だったが、二十一世紀はむしろ「多様と分散」だろう。国際化とともに多くなる在留外国人も含めて、多くの目的と多くの価値に応じて、多様な商品を用意するよりない。一つの目的と価値に向かう時代ではない。p147

 そこで会社というシステムの方向の作られ方が二十一世紀に変わるか。ともかくすべてがシステムとネットワークの二本立てで考えねばならぬ時代がきそうに思う。そのどちらかが優位にたつかはわからぬが、二十世紀のようにシステム優位の前提にはできないだろう。p149

これらの初出は1990年代です。それからどれだけの時が過ぎたのでしょう。森さんの予測通り、混ぜることへ、多様と分散へ、ネットワーク優位へ、時代は動いているのですが・・・・・。まだまだ退屈を楽しめるまでに至っていません。

さて、私たちは、時代を創っていくのでしょうか。時代を追いかけていくのでしょうか。この文庫はそんな疑問を残してくれました。私たちはいつまで時の踊り場に佇んでいるのでしょうか。

この文庫のように、雑本?のなかにも、人知れず埋もれた、いい本があります。だから、古本屋めぐりはやめられません。いま、この文庫が売れなくてよかったと思っています。

時の踊り場        二番が一番 (小学館文庫)
 
左:『時の踊り場』(単行本・青土社
右:『二番が一番』 (小学館文庫)