堀江敏幸『象が踏んでも 回送電車4』

朝起きて、涼しい風が吹き抜け、爽やかな一日の始まり。ポストに新聞を取りにいき、まず折込広告を除く。これが、いつもの朝の仕事。そしておもむろに新聞の一面から読むのではなく見始めます。読みかけの堀江敏幸『象が踏んでも 回送電車4』(中央公論新社)を傍らに置いて。

書いている時の語り手の言葉は誰のものでもないけれど、読者を得てはじめて声になる。それがうまく符合したとき内なる声となって、耳の奥にいつまでも残り続けるのだろう。「耳の奥に、その声は残り続ける」p95

今日は日曜日なので、大見出しに目を通した後は読書欄に。今週はこれといった本を見つけることができませんでした。もう一紙の読書欄も見ましたが、ピントくるものがありませんでした。そういう日もあります。

そしてまた、読みかけの堀江さんの本を読み始めます。夏の陽射しが差し込み、今日は暑くなりそうな気配を感じます。まだ風が吹いているので、それほどの暑さを感じません。最近では猛暑日*1が続きます。

検索すると、1990年以降、猛暑日が急増。1997〜2006年の主要4都市(東京、名古屋、大阪、福岡)における猛暑日が計335日と、1967〜76年の3倍近くになっているといいます。

堀江さんの今回の「回送電車4」は詩文あり散文ありの4冊目の作品です。例えば、寺田寅彦さんの文章の魅力について、また長谷川四郎さんの作品についてなども含まれています。

寺田寅彦の文章の魅力は、日常、私達がただ見ているだけで流してしまう現象に立ち止まり、深く、慎重に、しかも軽やかに思考を展開しながら、けっして解答を出そうとしないところにある。彼がやろうとするのは、言ってみれば「正確無比の問いかけ」であって、これはもちろん物理化学全般にわたる該博な知識と、人並みはずれて微細な観察眼、そしてそれを文章化できる言語能力のすべてがそろってはじめて可能となることだろうけれど、膨大な随想を読み返すたびに、この三つの要素がどれほどなめらかに、どれほど有機的に結びついているか、その言葉の流れにときおり呆然とすることがある。「正確無比な問いかけ」p96

長谷川四郎の作品には、湿り気がない。言葉と言葉のあいだに奇妙な隙間があって、その隙間に大陸の乾いた風が吹き込み、読み手の視線は遠い地平線の彼方に吸われていく。親しみや共感をじかに表現するのではなく、自分と他人のあいだの空気を通して読者に伝えたあと、それを立方体に切り出してぽいと遠方に投げ捨てるような書法、もしくは、可能なかぎり装飾をそぎ落とし、前後のつながりがわからなくなることさえあるほどのぶっきらぼうな文体が、ほかに類のない世界を創り出している。「風と地平線」p125

こう読みながら書きながら、ここまできたのも、まさにこの言葉のせいでしょう。まだ読み終えていません。この本は速く読むのではなく、ゆっくり読みたい本です。まさに「遅読」のための本です。

本の中に出てくる本が、とても気になる。地の文に挿入された作者や署名は、時として、すぐれた書評や批評以上にその本の魅力を伝えることがあるのだ。「未完のモーリヤック」p127


回送電車        一階でも二階でもない夜―回送電車〈2〉
 
 
アイロンと朝の詩人―回送電車〈3〉        象が踏んでも―回送電車〈4〉


*1:
夏日(1日の最高気温が25℃以上)
真夏日(1日の最高気温が30℃以上)
猛暑日(1日の最高気温が35℃以上の日)
※熱帯夜(夜間の最低気温が25℃以上の日)