生島遼一さんの「名文ではない、いい文章」
山田稔さんの『マビヨン通りの店』を読みました。この本は加能作次郎から多田道太郎までを取り上げたエッセイで構成されています。読み終わると、なんとなく、あれやこれや考えてしまいました。
なかでも、ひときわ印象深かったエッセイは、生島遼一さんのことに触れた「生島さんから教わったこと」でした。これを読んで、生島さんと山田さんの関係がこれほど深いものであったとは知りませんでした。
山田さんは生島さんの「らしい」ところをエッセイ集の中から引用しています。それは次の箇所です。
生島さんのいう「名文でもない、いい文章」とは何か。
「いい文章とは、いわゆる名文ということではなく、平明で、むだのない、そして読者に親切なわかりいい文章ということなのだ」(「なぜエッセイを書くか」、『鴨涯日日』) p170
これを読んで、生島さんのいう「いい文章」=「平明で、むだのない、そして読者に親切なわかりいい文章」を書きたいと思いました。
なお、生島さんが「いい文章」のお手本と考えていたのは、志賀直哉であった。「私の文章の書きかたでもっとも影響されたのは志賀直哉だということは、はっきり認めていい」(「大正の文学」と私)、『水中花』) p170
また、お手本にした志賀直哉さんと生島遼一さんとの関係も、生島遼一さんと山田稔さんとの関係もいい関係であったと思います。山田さんの生島さんへの思いが行間から感じられます。
さらに、生島さんが八十五歳の手紙のなかで、こう書いています。
忙しい中で、よく作家活動を続けているのに感服します。ぼくも自分のものらしき書きものしはじめたのは七十才近くからです (小説じゃないけど) 。大兄学校定年になってからも、もちろん続けるだろうが、まだまだこれから出発の意気ごみでやってください。 p174
生島さんでさえ、「ぼくも自分のものらしき書きものしはじめたのは七十才近くから 」だと言います。自分が納得するためものを書くには、日々「出発の意気ごみで」、70年近くの年月が必要だったのです。
※このエッセイにも掲載されていますが、生島さんのエッセイ集は全部で6冊あります。年代順に並べると、次の通りです。尚、このほかに泉鏡花に関する文章をまとめた『鏡花万華鏡』が1992年に筑摩書房から出版されました。
年度 | 書名 | 出版社 |
1972年 | 『水中花』 | 岩波書店 |
1976年 | 『蜃気楼』 | 岩波書店 |
1979年 | 『春夏秋冬』 | 冬樹社 |
1981年 | 『鴨涯日日』 | 岩波書店 |
1984年 | 『芍薬の歌』 | 岩波書店 |
1987年 | 『鴨涯雜記』 | 筑摩書房 |