この本の前では厳粛に

週末に読んだ本に、多田富雄さんの『落葉隻語 ことばのかたみ』(青土社)があります。どういったらいいのでしょう。読み終えて、何も言えず、この本の前でしばらく沈黙をしていました。

ご承知の通り、多田富雄さんは著名な免疫学者で、昨年4月になくなりました。まだまだやりたいこと、書きたいこと、言いたいことが山ほどあったでしょう。それができずに、何と無念であったことでしょう。

しかし、多田さんはそれにめげず、それに抗い、死を自覚しながら、凄まじい闘病生活を送り、いまここに最後の思いをことばとして残してくれました。

実に、重い言葉です。これを読むにはしっかりとした覚悟が必要になります。それがなければ、読まないほうがいいでしょう。この本をそういう本だと思います。

多田さんは自分自身について書いています。

 私は八年前に脳梗塞で右半身の自由と言葉を失った。障害を抱えながらも執筆を続けることができた。今はそれさえ奪われようとしている。書くことができなくなったら、生ける屍である。何とかそれを避けて、書き続けたい。それが来る年への唯一の期待だ。
 しかし、それも難しくなった。十分タイプを打つと、痛くて三十分くらい休まねばならない。もう駄目かもしれないと思いながら、この原稿を書いている。
 脳梗塞で右半身が動かなくなったときも絶望で生きる気力を失った。今度はたかだか骨折、いずれ痛みもなくなる。今度こそわが人生の終わりを飾るいい文章を書いてやろうと思いながら絶望感が襲う。 p96

ある失語症の患者は、「有難う」という言葉を満足に言えるようになるのが努力目標だという。私も世話をしてくれる妻に「有難う」と自分の声でお礼を言いたい。言語障害者の日常生活の不便さは想像を絶する。 p93

こうして絶望に向き合い、命ある限り、毅然として生き抜いた多田さんに敬意を表したいと思います。この本がまさに多田さんが残してくれた「ことばのかたみ」です。

ですから、この本の前では、厳粛にしなければなりません。

落葉隻語 ことばのかたみ     独酌余滴 (朝日文庫)     生命の木の下で (新潮文庫)