飯島耕一さんの鮎川信夫論のなかから
飯島耕一『詩の両岸をそぞろ歩きする 江戸と、フランスから』*1 (清流出版)の「無の光芒放つ後期の詩 ― 鮎川信夫論」から何気なく拾いました。
コーネリアスというのはアメリカの詩人デルモア・シュワルツの短編に出てくる人物のようである。シュワルツはアメリカのオーデンと称されたが、四十歳で才能は燃えつき、アルコールと麻薬に蝕まれ、一九六六年に死んで死体置場に二日間放置されたままだったとこの詩(鮎川信夫『宿恋行』)の終りの方に出て来る。p74
(何のためのメモか)
ただ、ここに、シュワルツというひとりの詩人の一生が3行で記されています。そんなものでもあり、そんなものでもなし。なぜか、どうしても記しておきたかった、記事です。
*1:本書の題名の今一つ、「詩の両岸を」というのは、東西両岸の詩、西欧の詩の岸辺から芭蕉や其角も入れて現代の詩までという「両岸」を指している。
そして、また両岸の思想とは、複眼の思想にも似て、硬直することのない自由な精神のことである。とりわけ、この機械化、記号化の無残なほどに一切を侵蝕することをやめない現代にあって、「両岸の思想」はしっかり握って手放さないほうがいい。それは俳であり、諧謔であり、優情(タンドレス)であり滑稽であるだろう。p346-1347
さてこの新著の題名に「そぞろ歩きする」という言葉を入れることを思いついたのは、まだ春の終わるころだったが、何やら右の漢詩にもつらなる「のどかな」「せかせかしない」題をつけようと思ったためだった。
そぞろ歩きするというのは、あてもなくのんびり歩く、漫歩散策することと辞典にあり、フランス語ではフラネと言い、漫歩する者のことをフラヌールと言う。
フランスの二十世紀初頭の文学的フラヌールの代表は、セーヌの岸を漫歩した「ミラボー橋」の詩人アポリネールであり、われわれの国では隅田川の畦に杖を曳いた荷風であろう。p345