一海知義著『漢語の知識』を読んで

この一海知義著『漢語の知識』(岩波ジュニア新書)は誰かのブログで取り上げていた記憶なのですが、それが誰のブログだったのか? 思い出せません。著者と書名は微かに覚えていました。帰り、古本屋さんの店頭でこれを見つけ、なぜか買ってしまいました。

この本は岩波ジュニア新書の1冊なのですが、漢語のついてたいへんわかりやすく書いてありました。そして読み始めたら、止まらなくなり、読み通してしまいました。漢語は奥が深い、漢文もまた面白いと思いました。

その中の「文章」からの引用。

河上肇自身も、あるとき、文章についてつぎのように語ったといわれています。

・・・・・ われわれの論文は、専門家にだけでなく、一般大衆にも読まれ、理解されるものでなければならない。内容的によいものであることはもちろんだが、その文章、その表現は、素人にも良くわかるように、やさしく、わかりやすいものになっていなければならない。文章の要諦は、修辞でなく、達意であり、簡潔で、わかりやすいことである。(『河上肇―学問と詩』197ページ 1979 新評論)

一海さんはそれを読んで、次のように言います。

しかし、よく考えてみれば、相手への「達」し方が問題です。ただの伝令のように簡単にそっけなく伝達するのではなく、相手の心に深く達して、忘れがたい印象をのこす、そういう文章は、やはりそのための修飾・工夫が必要でしょう。ただ、修飾が主で達意が従というのではなく、あくまでも達意が主で、そのためにのみ修飾がほどこされるとき、文書は美しくあるいは力強く、生き生きとしてくるのだと思います。 p47

河上肇さんのいう「達意」の文章は一海さんの「相手の心に深く達して、忘れがたい印象を残す」文章です。だから一海さんも「深く達して」に点を添え、強調しています。

河上さんは「文章の要諦は、修辞でなく、達意であり、簡潔で、わかりやすいことである」といい、一海さんはそれをさらに「あくまでも達意が主で、そのためにのみ修飾がほどこされるとき、文書は美しくあるいは力強く、生き生きとしてくる」と言います。

達意と修飾。この2つが達意の文章を作成するために不可欠です。そして「その表現は、素人にも良くわかるように、やさしく、わかりやすいものになっていなければならない」。まさにその通りだと思います。

一海知義著『漢語の知識』がジュニア新書だからといって、侮ってはいけません。

漢語の知識 (岩波ジュニア新書 25)         漱石と河上肇―日本の二大漢詩人