「本とはそういうものなのだ」

11/30の「読書で日暮らし」を読んでいます。見てはいけない物を見、触れてはいけぬ物に触れ、入ってはいけない所に入ってしまった。そんな思いです。本の整理はそういう問題です。

しかし、Tsubuteさんは次のようにまとめています。が、これで本が整理できるかどうか。増え続ける本の対策になるのかどうかです。

<また、百目鬼恭三郎は以前に一度本を整理したとき、必要な本を処分してしまい、必要でない本だけが残ってしまって後悔の念にとらわれたことがあったという。家の床面積や、家族の居住空間への配慮から、本が増え続けていけば、どこかの時点でこれを整理しないわけにはいかなくなる。が、身銭を切って買い集めた蔵書なのだから、本来、売る売らないの線引きなど不可能だ。だから、本を売ってしまったら、どうしたって後悔はつきまとう。百目鬼恭三郎は最後に云う。「本とはそういうものなのだ」と。>

これを読んでどうでしょう。この問題、どう考えても、こういう結論になってしまいます。これは本をどう整理するかの対策ではありません。単に、自分自身を納得させるためのものです。

そう、これは整理できない本についての言い訳ですが、もうひとつ読めない本、積読本についての言い訳がここにあります。すばり、「本は読めないものだから心配するな」。この言葉もわれわれを強く後押ししてくれます?

<本に「冊」という単位はない。これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝や落ち葉や草の岸辺だ。流れは方向を変え、かすかに新たな成分を得る。問題なのはそのような複数のテクスチャアルな流れの合成であるきみ自身の生が、どんな反響を発し、どこにむかうかということにつきる。読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ。そしていつか満月の夜、不眠と焦燥に苦しむきみが本を読めないこと読んでも何も残らないことを嘆くはめになったら、この言葉を思いだしてくれ。
 本は読めないものだから心配するな。>
管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(左右社)

管啓次郎さんの本】


本は読めないものだから心配するな     斜線の旅     ホノルル、ブラジル―熱帯作文集



左:『本は読めないものだから心配するな』左右社 (2009/10/20)
中:『斜線の旅』インスクリプト (2010/01)
右:『ホノルル、ブラジル―熱帯作文集』インスクリプト (2006/12)