つながるということ

ブログめぐりをし、記事を読んでいると、ブロガーの生活を知ることになります。そしていつも思うのです。同じ日は一日としてない、と。これはTwitterを、Blogを、HPを読んでも同じです。

こうしたメディアを通して、自分を自由に表現し伝達できるようになりました。表現したいことがあれば、どういうメディアを使うかは本人しだいです。複数のメディアを活用し、複合効果を出すことも可能になりました。

メディアで自己表現を伝えることは、情報を一般に公開することになります。公開したくないプライベート情報ならmixiを、好きなことを言いたければ2ちゃんねるを利用すればいいのです。

また、情報提供者は本人だけでなく、国籍や性別や年齢も関係なく、だれにでもなれます。情報の信憑性もどれだけのものかは定かではありません。真実から虚偽までの情報が仮想空間の中で飛び交っています。

こうしたメディアはいつでも、どこでも、だれでも、つながることが可能です。ケイタイのように、番号を押せば、相手につながり、話をすることができます。簡単につながることが、安易なつながり=関係をつくります。

その関係は良い関係ばかりではありません。良くない場合もあります。その場合は簡単に相手とのつながりを切ることが可能です。またつながらないようにすることも可能です。それでもいやなら、すぐに削除することができます。

つながるということは、つながらないことを前提として、つながるために相手の立場に立ち、自分の言いたいことを十分相手に伝えること。100%の相互理解があり得ないので、人は理解しあうためにコミュニケーションをするのです。

こうした基本が忘れられているような気がします。つながりはそれほど簡単なものなのでしょうか。

軽重、深浅、大小、と並べると、今の時代は軽、浅、小の時代です。どんなつながりがあってもいいのです。それもひょっとしたら、つながらなくても、自分がよければいいのです。

人は理解し得ないから、理解しようとするのですが、いまこの時代、人は理解し得ないから、理解しようとしないのです。つながる=つながっているという思い込みの中で、つながっていないことを知りません。いや、知ろうとしないのです。

いま、ここに至っても、なお、つながるということのむずかしさを感じています。だからこそ、ひとがひととつながるということがどういうことなのか、もう一度考えてみたいと思います。