鴻巣友季子『カーヴの隅の本棚』より

1. 小説の魅力とは明確に言語化できない部分にあり、明確に言語化できないことじたいがまた魅力である。その面白みのなかにたゆたうことばのない享楽−保坂氏の言い方をかりれば「わかる、わからないではない」世界−は読む愉しみの最高峰といえる。それとは別に、小説の強烈な力にくすぐりだされた「あらぬ思考」の蔓をたどることも、ひそかな愉しみには違いない。書評するという意識があると、多少不自然な圧力が掛かるせいか、「あらぬ考え」の蔓が違う思わぬところからにゅっと伸びて−仮想や想像や回顧がより働くことだろうか−きたりする。読み手としては、これも面白みのうちではある。 p21-22

2. 前章で、「小説というのは、長くつづく余韻のなかでこそようやく本当の姿が見えてくるものではないか」といったことを書いた。読書にとって小説とは、記憶のなかに残っている「感触」みたいなものの集まりなのではないか。それを例えば、鷲田清一氏が『感覚の幽い風景』で、「ぎゅっと握りつぶすこともそっとまさぐることもしきれない、形がわからない、ただ切面の感触だけがありありと残っているあの感触」と書いていた身体感覚にも似ている ・・・・・ 。 p57

3.「書物は、われわれが読んだそばから融けて、記憶に転じてしまう。まだ最後のページをめくっているときにも、その内容の大半はすでにあやふやで疑わしいものになっている。しばしのち、数日か数か月すぎたころには、実際いかばかりのものが残っているだろう?
 ひと叢れの印象、不確かさの霞の奥からあらわれる明解な点がほんの幾ばくか。本というものにわれわれが望めるのは、一般にこれぐらいがせいぜいである。読書という体験は、後になにがしかは残す。そして、われわれはそうした面影を本の名で呼んでいる。」(筆者訳) p57-58 
Percy Lubbock 「The Craft of Fiction」(小説の技法)

カーヴの隅の本棚