荒川洋治『文学の門』

今日、荒川洋治さんの『文学の門』を読了しました。今年に入り、荒川さんの本(みすず書房)を2冊読みました。荒川さんも川本三郎さんや坪内祐三さんのような「本読みの達人」だと思います。

例えば、次のような一文。

<散文は、社会的なもの、社会的な責任を負うものであり、個人のことばを、だらだらと無反省に書きつける場ではない。疑問をもったり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、表現も、書く人も信頼された。そのことが次第に忘れられてきた。>p10

「個人のことばを、だらだらと無反省に書きつける場ではない。」といわれると、ブログを書いている私も反省するところ大です。散文とはそうした社会的な面もある。これが忘れられてきたことは確かです。

自分のことを自分の言葉で書けばいいのではありません。こうした自覚あるなしによって、本来の散文であるかどうかが決まるわけです。書き手としてはこの点を自覚すべきです。

個人的なことが無制限に語られています。個人が新しいメディアを持ち、語り始めたことはいいのですが、語ればいいというわけではありません。散文には反省を伴い、それを自覚した表現でなければなりません。

語りでなく、散文を。独白でなく、会話を。

これが大事だと改めて思いました。

文学の門



追記ですが、この本の中で、鮎川信夫さんの詩についての文章が引用されていました。いい内容でしたので、メモしておきます。

<よい詩というものは、「存在」に対するそれ自身の証しをもっているものです。よい詩の中には、生命力のもつあたたかさというべきものがあって、それらは、活力のある言葉の有機的な連関・組織・構造から、自然に生まれてくるものです。
 私たちは、よい詩を読むことによって、その詩のもつ生命力のあたたかい鼓動にふれ、詩の言葉の働きが、いかに「存在」に対応していきいきと作用しているかを見、あるいは聴くことができます。>p62