雑誌の休刊について

今日ブログを見ていて、あの「マリ・クレール日本版」(アシェット婦人画報社)が7月28日発売号で、また『STUDIO VOICE』(インファス・パブリケーション)が8月6日発売号で休刊するニュースを読みました。

昨年から今年にかけて、雑誌の休刊が増えています。新聞でもこの件が取り上げられていました。その理由は「経営側の判断」といいます。要はビジネスとして成り立たなくなったことが理由です。

仲俣暁生さんの「海難記」を読みますと、『STUDIO VOICE』を取り上げて、次のように書いています。

<極端な話、雑誌の作り方をゼロベースから考え直すためにも、『スタジオボイス』だけでなく、「カルチャー誌」なる中途半端なジャンルの雑誌は、ぜんぶ一度なくなったほうがいいんじゃないかとさえ思う。日本における「カルチャー誌」の本質は、ジャーナリズムを排除した怠惰から生まれた、ただの手抜き雑誌でしかないと私は考えているので。>

これは確かに「極端な話」ですが、「手抜き雑誌」であれば、それは淘汰されてしかるべきだと思います。雑誌の採算、時代との同期、顧客の関心など、多くの点でズレが生じた雑誌の当然の帰結ということになります。

それだけ出版も雑誌も厳しい状況に立ち至っているということです。この状況は以前から言われいることですが、それに対してどこも有効打を打っていません。

一方では村上春樹さんの『1Q84』飛ぶように売れるという「1Q84現象」も起きています。読者がこの小説に何か感じ、読もうとしている訳ですが、その何かが?( この現象の分析は追々ブログ等に掲載されるでしょう。)

読者は何かを待望しています。読者は自分と時代とに共感する何かを求めています。それが満たされないので、一点集中の「1Q84現象」になっているのかもしれません。

そう考えると、いままで現状分析に甘え、未来設計もせず、ただひたすら自己満足の世界に閉じこもってきた結果がこの雑誌の現状ではないのか。そんな風にも思います。

であれば、もう一度その点を考えるために、仲俣さんが「ぜんぶ一度なくなったほうがいいんじゃないかとさえ思う」という考えに共感できます。

これからの雑誌、もっと広くいうとメディアはどこからどこへ行こうとしているのか。いまだはっきりとした道筋は見えていません。