いつもの生活へ

今年元旦から、私事あわただしく、元旦からゆっくりと新聞に目を通していませんでした。新聞を読む中で、文化についての記事、なかでも本についての記事が少なくなったと思うのは私だけでしょうか。

新聞を開き、第一に大見出し、中見出し、小見出しと読んでいきます。関心のある記事はじっくり読むわけですが、そうでない記事は飛ばし読みをします。毎日毎日、東京で、日本で、米国で、世界で、何も起こらない日はありません。

新年からこの当たり前なことに気づくことなく、そうした余裕すらなかった日々を過ごしていました。いま普段の生活に戻りはしたものの、まだまだいつもの日常というわけにはいきません。

しかし、時はそのまま止まっているわけでなく、日常の繰り返しの中で、心の平穏を取り戻し、普通の生活に戻ることになります。それにはもう少し時間が必要なのかもしれません。焦ることなく、なだらかにいつもの生活へ。

例えば、「BASARA BOOKS」のブログで、「後藤書店:あす閉店 1910年創業、空襲・震災乗り越えたが−神戸・三宮/兵庫」という記事を読みました。そこにはこう書いてありました。

<今日、百年近く続いていた古書店が閉じるという。
三都に弱い、自分はこのお店には行ったことはないけど、
調べたら、神戸で最も有名な古本屋。

学生の利用客が減ったのも閉店の理由の一つだというが
イロイロと考えさせられる。
何を考えたかはもう忘れた。>

「何を考えたかはもう忘れた。」という一言! わかるような気がします。しかし、敢えて、次の引用をします。これは「BASARA BOOKS」へというよりも、私自身へのことばとして。

<なんであれ、滅びないものなどありはしないのだ。むしろ滅びまでの時間をどれだけ長引かせ、どれだけ大切にしていくかに心をくだき、滅びのなかで、なおかつ生き延びたものを継承しながら、思いがけない再生を待つ日々の充実のほうに想いを向けるべきなのである。>
堀江敏幸『アイロンと朝の詩人-回送電車3』(中央公論新社) p282