福岡伸一『やわらかな生命』(文藝春秋)より 2

<生命現象は、この世界にあって、最も秩序あるしくみだ。エントロピー増大の法則は、生命の上に、細胞のひとつひとつに情け容赦なく降り注ぎ、タンパク質を変性させ、細胞膜を酸化し、DNAを傷つけようとする。
 すこしでもその法則に抗うために、生命はあえて自らを壊すことを選んだ。率先して分解することで、変性、酸化、損傷を、つまり増大するエントロピーを必死に汲み出そうとしているのだ。下るべき坂道をできるだけ登り返そうとしているのだ。あたかもシジフォスの巨石運びのように。
 しかし巨大な宇宙の大原則のもとではその努力も徐々に損なわれていく。排出しきれない乱雑さが少しずつ細胞内に溜まっていく。やがてエントロピー増大の法則は、動的平衡の営みを凌駕する。それが個体の死である。
 人の心は変わるということ。人は必ず死ぬということ。このあまりにも当たり前の事実を思い出すだけで、たいていのことはやり過ごすことができる。明日もがんばっていきましょう>。P132-133