つながる安心感? ソフトな監視社会!

新聞を読んでいて、小さなコラムが目に留まりました。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」、そんなコラムもあるのです。例えば、今日の日経新聞の「これがおすすめ 電子版から」。あの悪ふざけの写真投稿を取り上げて、次のように書いています。

<「いいね!」のボタンを押し合うことで得られる「つながる安心感」と「ソフトな監視社会」は表裏一体であることを意識してネットとつき合うべきかもしれません>。

あの悪ふざけはごく一部だと思いますが、見る見られるのなかで、見られる自分への意識の欠如。「ソフトな監視社会」においての無防備な対応。あまりにも非常識極まりないと言えるでしょう。

わたしの常識が優先? わたしたちの常識が二の次! 自分=自分たち(仲間)さえ、よければいいのでしょうか。見られる自分の不在によって、そこにはあまりにも無神経な自分しかいません。

見る自分ばかりが肥大化し、見られる自分は縮小化しています。双方のバランスはすでに崩れ、表面的には広いつながりなのですが、内実は薄いつながりになっているのが現状でしょう。

確かにネット社会では、いつでも、どこでも、仲間同士であれば、「つながる安心感」があります。しかし、仲間同士という条件付きです。その条件を維持するために常につながる/つながらない不安も抱えなければなりません。

すぐつながることは、すぐ切れる/切られることです。つながらないようにするには電源をオフにするか、番号を変えればいい。やろうと思えば簡単なことです。そうした決断ひとつに支えられいるのがネット社会のつながりです。

かなり危ういつながりと安易に見られる環境のなかに、私たちはいるのです。ですから、「つながる安心感」と「ソフトな監視社会」は表裏一体であることを意識してネットとつき合うべきだ!と思います。