清水幾太郎『私の文章作法』

文庫も新書も単行本も本棚から溢れ、それぞれ平積みになっています。その山がいくつも立っています。少し移動するだけで、揺れが生じ、危険な状態になります。心して山崩しをしなければ、見つかるものも見つかりません。

たまたま注文の本を探していたら、まったく関係のない本を見つけることがあります。それはかつて読みたかった本であったり、買ってから行方不明になった本であったり、という失われた本でした。

それらの本を見つけたときは、埋もれていた秘宝を見つけたように、内心狂喜乱舞なのです。なぜこんなところに、と思いますが、いつか、どこかに消えてしまったものを咎めても仕方ありません。見つかっただけでも見っけものです。

それが清水幾太郎さんの『私の文章作法』(中公文庫)でした。ご承知の通り、清水さんは『論文の書き方』(岩波新書)を書き、次いでこの『私の文書作法』を書きました。

清水さんはこの2冊を比べて、次のように言います。

『論文の書き方』と『私の文章作法』とは、もちろん、根本の考えは全く同じであるけれども、前者は、短期間に一気に書き上げたもので、それだけ密度が高く、少し堅い感じがするのに対して、後者は前に述べたような事情で、長い期間、あちらこちらと脱線しながら話して来たものなので、それだけ読み易いということがあるかも知れない。両者が補い合ってくれれば、というのが私の正直な願いである。『私の文章作法』p196 

そして、次のページを見ると、何と解説が狐さんでした。この人選にびっくりしました。読み始めると、狐さんのいつもの丁寧な文章に引き込まれ、どんどん読み進んでしまいました。

読み終わると、『論文の書き方』も読みたくなり、本棚からそれを抜き、いま手元にあります。まだ昨日買ってきた文庫の一冊を読み始めたというのに、狐さんに化かされ、清水さんのこの2冊を読みたくなりました。

さらに、狐さんの解説の中で清水さんの2つの関東大震災関連の論文を紹介しています。

これをなぜ取り上げているかと言うと、この論文は「すなわち文書を書くということはどういうことか、清水幾太郎はそれを『私の心の遍歴』の一節と「日本人の自然観」とによって、力を窮めたダイナミックな形で見せているのである」。*1

清水流文章の書き方の実践編なのです。

この論文も読みたくなりましたが、著作集にしか入っていないので、それを借りるために、即図書館サイトへ。そこで予約申し込みをしました。あとは予約した本が図書館に届くのを待つばかりです。届いたら、メールで知らせてくれるので、メールが着たら、取りに行くことになります。

実に便利になったものです。

論文の書き方 (岩波新書)        私の文章作法 (中公文庫)


*1:こうも言っています。感動させられるのは<「日本の自然観」のような研ぎ澄ました批評性で震災を読みほぐす文章を書く一方、清水幾太郎は、自身の直接の羅災体験を語って、ほとんど身体感覚的な怖さをさえ誘発する文章も書いた。「日本の自然観」が切実に胸に沁み、腹に応えるのは、自叙伝『私の心の遍歴』の一節に書かれた関東大震災の恐怖の直接性、肉体性に気づくときである。>こういう読み方ができればいいと思います。狐さんの読書力、やはりさすがです。